「損すること」について

よもやま話

自分の損得で物事を考える人がいる。お金、時間、労力など、何かを行う時には自分の持っているリソースを使う必要があることも多いが、それを極端に嫌ったり、他人に負担させようとするタイプである。自らのリソースを使うことを「損である」と考えるわけだ。

私の友人は、現在婚活をしているのだが、彼が先日こんなことを言っていた。彼は、婚活で初めて異性と会う場合に、どうしても自分の住んでいる地域や駅の近くにしたいらしい。彼は大阪在住なのだが、例えばお相手が京都の方だとしても、何としても大阪の駅近くに来てもらおうとしているようだ。彼に言わせると、「会った時のお茶代とかも負担するのに、わざわざ京都まで行くのは損じゃないか」というわけだ。まだ、関係性が出来ていない相手だから仕方ない面もあるのかもしれないが、そこは損得じゃなくて自分が動ける状態なら出来るだけお相手の便利な場所に行ってあげたらいいんじゃない?とは思う。自分が負担することがとても難しいことならともかく、移動するくらいなら少しの時間と費用で済むわけだし。

また、知り合いで、お店などと電話する場合、話の途中でお店側が「少しお待ちください」などと保留した場合、必ずこちらから切ってしまう人がいた。お店側から再度電話が来ることを期待しているわけだが、彼から言わせると「電話代が損だから」というわけだ。

このように何でも自分が「損をする」ことに過敏な人と接していると、何をそんなに恐れているのだろうと思ってしまう。自分のリソースが極端に奪われるならそれを避けたいのは当然だと思うが、ある程度自分に負担があっても、その結果みんながハッピーならいいやんと思う。その負担できる(してあげられる)幅が大きければ大きいほど、自分自身がゆとりある生活を過ごせることにつながるんじゃないか。

では、また。

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